■只今バイクの旅を継続中
noteの記事で書きましたが、ワーケーションと称して東京の友人を尋ねる名目でバイクツーリングをしている真っ最中です。今は会津若松の快活CLUBでお泊まり中。
私は本当にツーリングが好きで、今(2025年10月)している旅のように、大まかな予定からの気まぐれに走行コースを決めるのが私のスタイルですが、そのおかげで思わぬ美しい景色に出会えるのが毎回の楽しみですね。
今風に言えば映えるシーンですが、不思議と止め絵にすると、なんとも微妙な写真になるんです。
バイクなので車と違い、気軽に道ばたで停車して写真を撮れるだろうと思った時期があったんですが、自分の脳内に刻まれた風景と似ても似つかないシーンが撮れるばかり。
それでも数多く写真を撮れば映えるものが取れると思いますし、過去にもそういった写真を撮れたことがありました。
でも、そうするとツーリングのリズムが狂うんですよね。良い感じで快適にワインディングを走っていて、チラ見すれば絶景の景色が目に入る。それを脳内で保管しつつバイクを走らせる感覚はなんとも言えない快感なのですが、それを邪魔してしまうのです。
そもそも私インスタに映える写真を投稿なんて言う承認欲求皆無ですからね。私の趣味に共感なんぞしてくれる人もそうそういないですし、自分から探そうとも思いません。
あと、根本的に風景画の写真って撮るの難しいですよね。しかも、ありきたりな撮影ポイントではなく、自分の目に飛び込んできた絶景をカメラに収めるのって本当に難しいと思います。
プロのカメラマンってやっぱり凄いんだなと思いますね。
それと、脳内の景色は実は本物の映像とは違うことを知ってますか?
■人が見るものは本物を見ていない?
目から入った映像(情報)は、そのまま脳に入らずに、色、形、動き、奥行きといった情報にバラバラに分解されて、それぞれ脳の異なる場所で処理された後、最終的に一つの「景色」として再構築されます。
しかも、その過程で脳は勝手に編集作業をし、本能的に見ている本人の意識フィルターを介して再構成されます。
つまり、人間が「見ている」と思っている景色は、実は脳が作り上げた主観的な映像ということですね。これは見たままの映像の情報では情報量が多すぎるので、自然選択をしているとも言われています。
「人間は見たいように(感じたいように)物事を見る」という曲解力の一種ですね。
ですから自分の部屋が散らかっているのは気にならないのに、他人の汚部屋には不快感を示すのです。客観的にみれば両者変わらなくともね。
その一方で、カメラは容赦なく物理的な現実をそのまま記録します。忖度などせずに、そのままの画像をメディアとして残すのです。で、それを見ると「なんか思ってたのと違う」となるのです。
あと、他にも要因がありまして、運動視差の情報もあります。
運動視差というのは、移動しながら景色を見ると、手前のものは速く流れ、遠くのものはゆっくり動いて見える、あの現象です。
さらに両目の立体視であることによって、平面情報である写真(や車載)と比べて脳に入る情報がまるで変わっているのです。
ですので、例え映える写真が撮れても、私本人は「コレジャナイ」感覚が気になって満足できないんです。思い出のアルバムとしてもあまり機能しない。
あと五感で感じる部分もあります。季節感を体で感じると言いましょうか。
今回のツーリングのように北へ向かえば当然肌寒さを感じ、高地に上れば空気の薄さと気温の低下を実感し、木々の彩りも走る場所によって変化する。
薄雲の中から日の光が当たる場所へ出ると暖かさを体で感じ、嗅覚だって森の中と街の中ではだいぶん違います。それこそ季節でも全然違いますね。
だいたい絵に撮ったような綺麗な景色の中で毎回走れなくて、小雨や小雪の舞う中を走ることもありますし、真夏のバイクツーリングは地獄のような暑さを感じ、またそれが良い思い出にもなったりします。
もしVR技術が進んでも、このような人間の五感を駆使した体験は得られないのではないでしょうか?そもそも光の質からして違います。
VRゴーグルやモニターが発する光は「透過光」と呼ばれ、液晶やディスプレイそのものの発光が光源です。
一方、自分たちが自然の物を見るのは「反射光」です。光が物体に当たり、その反射した光が目に届きます。
この「透過光」と「反射光」の感じ方は人それぞれのようでして、ある出版社の編集の人などはディスプレイで原稿を見るより紙に印刷された文章じゃないと仕事にならないと言っている人もいます。
私も強く違和感を感じるでしょうね。
ですので、VRが完全に現実を模倣できるようになることはなく、その疑似体験の受け止め方は人によりけりになるのでしょう。
結局人との共感とは完全に思いを共有するのではなく、色々なフィルターや思惑を通してもの物で、パーソナライズの関係に帰結するんでしょうね。
さらに前述のように、わたしはSNSで共感を得ようとする気がまったくないので、いつしか写真を撮らなくなりました。思い出は脳内になるからこそ輝くという信念…でもないか。単にツーリング中に写真撮るのがおっくうになっただけです。
■しかし人はつながりを求めるのである
まぁこうしてブログに残すという観点から見れば承認欲求がまるでないとは言えないのですが、これは私が文章を書くのが好きな事の表れですね。面白いもんで、人類は単独で生きられない社会的動物である以上、何かしらの人とのつながりを求める本能があるらしいので、孤独を愛する私もこうしてつながりを渇望する面があるようです。
なんかまとまりがなくなりましたが、気まぐれでこうしたお気持ちのブログを書いてみました。
おまけ:一応写真を撮りました。
見よ!この絶望的に映えなくて、映えさせる気をみじんも感じない写真を!
